このブログを検索

2022年12月7日水曜日

阿波水軍の田口くん、このごろ去就が変よー、というお話

 (この記事はボードゲーマーのHA(Harpoon Arrow)氏が呼びかけた「War-Gamers Advent Calendar 2022」( https://adventar.org/calendars/7938 )の12月7日分として執筆したものです)


2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のおかげで、俗にいう「源平合戦」(学術的名称としては治承・寿永の乱。武家同士の合戦にとどまらずその影響による日本国の乱れとしてみた場合の名称としては源平の乱と呼ぶ解釈もある)のことを知る人が多くなりました。


このタイミングに合わせてシミュレーションジャーナルが「義経戦記」をゲームジャーナル85号の付録として出版しました。6つの合戦級(戦術級)をまとめた作品ですが、その1つが「壇ノ浦合戦」です。


この参加兵力として用意されているユニットの中に、武将ユニットの「田口成能」と水軍ユニットの「田口勢」があります。ユニットの地色は「青」で、これは源氏陣営であることを示しています。


「お! 源氏陣営なの?」


本誌に掲載している解説記事では、田口氏は平家水軍として記述しています。図と本文には田口成良の名前があります。


「田口成良って、成能と別人なんでしょ。成良がお父さんで成能は屋島合戦で降伏した息子だったはず」


うーん、惜しい。

田口成良=田口成能なんですね。その他には重能。姓も「粟田」が正しいとする文献があります。ちなみに屋島合戦で降伏した息子の名は「教能」、もしくは「教良」といいます。

平家物語で息子の教能は、屋島合戦の直前に敵対する伊予水軍(今の愛媛県を根城とする水軍)の河野通信を攻撃するため阿波水軍の主力(二千騎とも三千騎とも)を率いて出撃していましたが、源氏陣営の屋島侵攻の報で戻ってきたところを源氏方の詭計(=源氏の攻撃で平家の主だった武将は戦死、田口成能は降伏して教能にも降伏を望んでいると騙した)によって「阿波水軍主力ともども」降伏します(ここ重要)。


さて、その田口成能ですが、多くの文献では平家と共に彦島に退却して壇ノ浦合戦で源氏との戦いに臨みます。しかし、嫡男教能の降伏を知った成能は戦意乏しく、最終的には源氏方に寝返って平家方が敗北する大きなきっかけとなります。


この壇ノ浦合戦における田口成能が寝返る時期についても、いろいろな解釈がでています。多いのは平家物語や源平盛衰記の中で描かれている合戦の最中での寝返りですが、吾妻鏡に捕虜として名があることから合戦が終わるまで平家方に属していたとする解釈も有力です(ただし、この場合も合戦中は傍観の立場だったとする)。


そして、成能が屋島合戦の直後から平家方から心が離れ始めていたとする解釈も少なくありません。根拠地であった阿波、讃岐から離れてしまったこと、そして、嫡男教能が源氏方に降伏したこと、それによって平家方の信頼を失って冷遇され始めたこと。いずれも当時の武士にとって耐えがたい出来事です。


この解釈の1つとして、壇ノ浦合戦の前から田口成能率いる阿波水軍が源氏方として加わっていたとする考えがあります。この根拠の1つが参戦水軍の兵力です。


吾妻鏡では「源氏八百四十余艘」「平家五百余艘」とされています。


平家の内訳に関する解釈は次の通り。

山鹿党 :三百艘

松浦党 :百艘

平家水軍:百艘


これで五百艘と計算は合います。


一方、問題なのが源氏の内訳ですがその解釈は次の通り。


梶原水軍(実態は渡辺党と阿波水軍):百四十艘

伊予水軍:六十艘

周防献上水軍:五十艘

緒方献上水軍:八十二艘

熊野水軍:二百艘


(以上、森本繁氏「源平海の合戦」より)


ここに挙がっている源氏方は五百余艘に過ぎません。森本氏は伊予の今張や忽那の水軍を動員したとしていますが、ここで、成能が率いていたとされている阿波水軍三百艘を加えるとちょうど吾妻鏡が記している「八百四十余艘」に近づきます。


義経戦記にある壇ノ浦合戦のシナリオで田口成能と田口勢の水軍が開始時点から源氏方とされているのは、この解釈に沿っているからなんじゃないのー、と思うのでありました。


なお。


屋島で阿波水軍主力と共に降伏した教能はその後どうなったのでしょう。

平家物語や吾妻鏡では義経の軍勢になったとされています。その数三千騎。三千騎を収容するのに百五十から二百艘が必要になります。教能が率いていたと思われる二百艘が阿波水軍として源氏方に加わっていた可能性もあり得るのではないかなとおもわなくもなかったり。

0 件のコメント:

コメントを投稿